パードレ人

2011年8月24日 (水)

パードレ人第三回(佐藤篤)

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(コミュニケーションの基礎は、自己開示だそうです=自分をオープンにする)

パードレを立ち上げたのは、1993年の秋頃だった。その年の春、北貝取サッカークラブの武田監督からコーチ就任を誘われて我が子の学年コーチになった。まだJリーグ開幕から間もないこの時期、サッカー経験のあるお父さんはほとんどいなかった。スポーツ経験はあるが、サッカーは初めてというお父さん達で、当時でも、サッカーというスポーツがいかに希少なスポーツであったか分かる。パードレは、そういうお父さんコーチのサッカー実習の場としてスタートした。

30代はマラソンと空手の日々だったが、40代のサッカーは、この北貝取サッカークラブのお父さんコーチと、休日のパードレの練習がメインだった。子供の成長とともに、サッカーに対する見方が進化し始めた。長男は成長するに従って、親から完全に離れ、プレーするチームが変り、サッカーのレベルがどんどん上がって行って、それに比例して、小生の自分のやっているサッカーは現代のサッカーではないと感じるようになった。

小学校2年生の時、静岡国体が開催され、JRで4つ東京寄りの藤枝市がサッカー会場となり静岡が優勝した。そのためか、小学時代(昭和30年代半ば)には、昼休みのサッカーは普通だった。当時作っていた日刊新聞にもサッカーのことが普通のこととして書いてある。しかし、古いタイプのサッカーだったためか、それほど人気のあるスポーツではなかった。ドッチボールやゴールハイというボールゲームと同程度のものだった。

小生は当時の多くの少年達と同様に、川上選手を目指す野球少年だった。しかし、日教組の担任教師の指導で、軍隊式の野球部から文化的な日刊新聞部にかわってしまった。今思うと、これによって、自分の進路が大きく横道にそれた。だが、そのために、はるか先になってから野球とは全く違うサッカーに再会することになる。野球を続けていたら、現在、サッカーは絶対にやっていないだろう。人生とはそんなものだ。

小生の地域では、サッカーは遊びと思われていたから、中学、高校にはサッカー部は無かった。中学では、体育の副読本を見てサッカーを研究した。もちろん、ペレや釜本は知っていた。高校では、小生の一年後輩が、藤枝東高から転勤してきた先生を中心にサッカー部を創部したが、自分は、もう卒業していた。メキシコ五輪で日本が銅メダルを取った時だ。

現在では、小生は、母校サッカー部の名誉OB会員となっている。

大学には1969年に入学したが、まだサッカーはエリートスポーツだったし、一般の大人がサッカーをやることなど誰も思いつかない時代だった。三菱ダイヤモンドサッカーも、下宿のマイクロ白黒テレビで見ていたが、少年のように胸をときめかして観たわけではない。しかし、ベッケンバウアーやクライフのキックの映像はずっと記憶にある。入学と同時に入った卓球同好会も、剣道同好会も、学園紛争の激化とともに自然消滅してしまった。

日本が高度成長を遂げた1980年代になって、普通の人も健康や余暇のためにスポーツをやる時代になってきて、日本のサッカーも少しずつ成長していった。

人は年齢の区切りで何かを決断する。小生も50代に突入したとき、年齢から考えてサッカーを基礎から勉強する最後のチャンスだと思った。それまで、様々なスポーツにチャレンジした。ゴルフ、テニス、大学時代に中途半端にしてしまった卓球と水泳などを、それぞれの時期にプロのコーチや大学の先生について基礎から練習した。指導の専門家に指導してもらうと驚異的に進歩することを知っていた。何事もまず、先生を探すことだ

サッカーは木村和司さんのサッカー教室を探し出した。当時は、元マリノスの木村選手(現在監督)、元グランパスの藤川選手、元マリノスの鈴木選手などが直接、マンツーマンで教えてくれた。時々、その他の、Jリーグ選手が来ることもあったし、元女子日本代表の本田選手にはリフティングを教えてもらった。

そこで、藤川選手の一言で、小生のサッカーに対する感じ方が180度変わった。藤川選手は、法政出身のディフェンダーで、身長は180以上で、正に体育会系サッカー部出身の体格の人であるが、藤川さんと、1対1でパスをしていた時のこと、「佐藤さん、もっと力を抜いて。もっとリラックスして。」と言うではないか。

それまで、小生はサッカーとは格闘技か地上戦と同じだと思っていたので、リラックスの反対で、体を固めてやらなければいけないと思い込んでいた。

藤川さんの一言で、すべてが変った。当時、小生のサッカーが変ったのはこのためだ。そして、ほとんどが勝ち負けを意識した練習で、とにかく、「楽しい」の一言に尽きる。サッカーに対する考え方がまったく変わってしまった。

この木村さんのサッカー教室の後、日本サッカー協会の公認指導員の資格をJビレッジの合宿で取得した。

二人の弟は完璧な野球人である。逆に彼らに追いつくべく、52歳で東京学芸大学大学院の保健体育専攻を受験して、なんと合格してしまった。以前から日体出身の弟の教科書を熱心に読んでいたし、英語は自分の職業だから自信はあった。そこで、藤枝東出身のTAKII教授に邂逅する。

TAKII先生は、クラーマーやオランダのリヌスミケルスに直接、教えを受けている。現在、日本サッカーの理論的第一人者だ。非常にユニークな楽しいサッカー理論をお持ちだ。学部学生とのサッカー実習もやらせてもらって、サッカー部現役学生と一緒に練習したことは貴重な体験だった。

勉強したサッカー理論を実践する意味で、多摩市の中学、静岡の中学、高校でサッカー部の外部指導員をした。その成果は驚くべきだった。それまで、都大会、県大会出場がほど遠かったチームが、平気で都大会、県大会に行ってしまった。どの場合でも、TAKII理論の実践と、熱心な体育の顧問とのコンビが良かったと思っている。

シニアサッカーは、学校の部活サッカーではない。部活サッカーはこれから大人になる子供達を鍛えるが、仕事を持っている社会人のサッカーは、やはりヨーロッパなどのクラブサッカーであるべきだろう。楽しむサッカーだ。潤滑油としてのスポーツだ。あるいは、日本各地にあるお祭りと同じような意味を持つのかもしれない。

それによって地域のコミュニケーションが円滑になり、地域の一体感を醸成するサッカーだ。

小生のサッカーの視点は、少年少女のサッカー、中学生や高校生のサッカーにあるが、それを支えるのは、地域の大人のサッカー文化である。

40年以上前に青雲の志を持って東京に出てきて、学問は成らなかったが、大人になってから、東京の多摩でサッカーに本格的に出会った。だから、東京に感謝である。そのおかげで、故郷の静岡のサッカーに合流することも出来た。

サッカーは本当に楽しい。楽しくクリエイティブなサッカーが各地で一般的になった時、日本は本当のサッカーカントリーになると思う。

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2011年6月 7日 (火)

「パードレ人(びと)」第二回橋詰隆

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幼稚園の頃、始めたのはサッカーではなくピアノだった。
小学校高学年になって、地域のソフトボールチームに、中学に入って軟式テニス部に
入ったが友人たちには内緒でピアノは続けていた。やりたかった訳ではなく、先生や
親が怖くてやめるとはいいだせなかったのだ。
大学に入ると状況は一変する。男ばかりの大学で女の子との接点を探した時に思いついた
のは下手くそながら続けていたピアノだった。上手な子なら小学生でも弾けるような曲を
弾いていたが、それでも狙い通り?かみさんも見つけることができた。
それから20年たって、ピアノはずっと趣味で続けている。
相変わらず下手くそなのは変わらないが、それなりに難しい曲も弾けるようになってきた。
人間、何事もずっと続けていれば少しずつでも進歩するものである。
そんな僕が40を過ぎてパードレに参加させていただき、ずいぶんたった気がします。
最初はまともにボールを蹴るのもままならず、走りまわるだけでしたが、チームの方がたに
優しく?指導いただき少しずつサッカーらしくプレーできるようになってきました。
継続すれば歳をとってからでも進歩するもんですね。
その結果、本日、公式戦で初ゴールを決めることができました!
みんなが喜んでくれたのが一番嬉しいことでした。
この感動をまた味わいたい、と思う限りまた週末に宝野公園に向かうでしょう!

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2011年4月24日 (日)

「パードレ人(びと)」第一回古橋哲哉

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パードレのブログでは、過去に「私とパードレ」「私の思い出のプレー」というメンバー一人一人の思いを連載してきました。ここに新たに新シリーズ「パードレ人(びと)」の立ち上げます。このシリーズ連載の目的は、メンバーの相互理解を深めて絆を強くする。また、メンバー以外の皆様には、当クラブを理解する題材を増やして賛同するシニアメンバーの入部促進です。今回のシリーズはテーマは自由です。記念すべき第一回は古橋さんにお願いしました。

1974年の夏の暑い朝、目を真っ赤にした高校生の一群が廊下の隅に集まり、何やら話しこんでいる。
「開始早々にPKだもんな。どうなることかと思ったよ」
「ゲルマン魂の底力を感じたね」
「でも、オランダのあのサッカーは一体、何なんだ…」
ワールドカップが初めて日本に生中継された翌日のことである。西ドイツ大会の決勝は、西ドイツ対オランダ。ベッケンバウアー率いる西ドイツが2-1で同大会を席巻していたオランダを倒したものの、以後の世界のサッカーは、この時にクライフ擁するオランダが示した“トータル・フットボール”が主流となる。

この強烈な思い出から、三十有余年が過ぎた2010年のワールドカップ。僕は再び、強い感銘を受けた。今度は、我がサムライ・ブルー。下馬評は相当辛辣であったが、大会に入るや快進撃。予選リーグを堂々通過し、ベスト8にあと一歩というところまで漕ぎ着けた。しかしながら、最も感銘を受けたのは、帰国後の岡田ジャパンのチーム・インタビューだった。実に、いいチームだった。

こうした強い感動を受け、くたばる前にもう一度サッカーをやりたいと、一念発起したのが、昨年2010年の夏。あまりの猛暑のため、スポーツクラブで筋トレ、ランニングなどごく基礎的なトレーニングを3か月ほど行い、10月になって、門を叩いたのが「多摩パードレFC」でした。30年以上もサッカーをやっていなかったために、最初の頃は、2時間の練習に1時間ももたず、練習後も、アミノサプリやら「極楽湯」やら整体やらのフルコース。ほんと、トイレに座るのも大変だった。
それでも、楽しいです。その楽しさの源は何なのか?
それは、この草サッカー・クラブの“親爺”たちのせいなのか。
はたまた、サッカーというスポーツそのものの楽しさなのか。
僕にはまだよくわかりませんが、それでも毎週、サッカーをやりたくなります、宝野公園で。
こんなときに球蹴りをやっているとは何だ!と批判される向きもあるかもしれませんが、日常というものが如何に大切なものであり、サッカーができる幸せをかみしめ、そして、大震災に遭遇された方々のことを考え、その姿勢に勇気をもらい、サッカーを続けたいと思います。

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